無駄な取り組みこそ。
皆さんこんにちは!MANAです。
今日のテーマは「無駄」です。
さて、無駄という言葉にはあまり良いイメージがありません。
必要がない、ということなので出来るだけ無い方が良いですよね。
無駄な時間、無駄な取り組み、無駄な付き合い。
それらを省いて、出来るだけ効率的に意味のある事だけをやっていきたいですよね。
では、【無駄な事】を経験する意味というのは本当に無いのでしょうか。
分からない事があればグーグルで検索して答えを見るように、自分が知りたい答えだけを知り、【ああ、そうなんだ】と頭で理解して終わってしまう。
そんな風に取り組んでいく事は、自分にとってどんな影響を与えていくのでしょうか。
少し話は変わりまして。
ある料理店のコック長は、卓越した技術を持っていました。
たくさんの見習いコックは、コック長の教えを日々学び、修行していました。
コック長が伝えてくれている技術は、極みの境地であり到達点です。
習っている見習い達は、【これが料理の極意なんだ】と確信して修行していますが、中々身に付きません。
ある日、コック長は見習い達にこう言います。
「教える事は全て教えたから、これからは自分達だけでやってみろ。」
言われた見習い達は大慌てします。
今まで教えてもらった事を必死に思い出し、自分達で試行錯誤しながら料理に取り組みます。
たくさん失敗し、時にはコック長の教えとは外れた【無駄】な事もやってしまいます。
それらを見習い達は互いに指摘しあい、手探りで料理の修行を続けています。
さて、ある料理店での一コマ。
皆さんはどんな感想を抱きましたか?
コック長に師事し続けてれば、極意を得られたかも知れません。
自分達だけで取り組んでいたら、極意は得られないかも知れません。
極意を得る、得れないであれば当然得る方が良いのかもしれません。
けれども、口を開けてただ享受していただけの状態では生まれなかった、自ら生み出していく力・【創造性】は、動き始めた見習い達には生まれてくるのかもしれません。
横田先生は、【仏・法・僧】という3つの宝のお話しの際に、僧=仲間だと仰っていました。
共に切磋琢磨し、励まし歩んでいく。そのような関係性は何よりの宝だと。
奇しくも、見習いコック達は過酷な環境になった事で【僧】という仲間の存在に改めて気づき、苦しみながらも自ら生み出していく力を得始めたのかもしれません。
無駄や失敗を繰り返し、悩み励まし合いながら成長・拡大する。
ある意味、無駄というのは創造性を発揮する力の発信源になるのかもしれませんね。
もちろん!!
一番良いのは、コック長に教えてもらいながら、創造性を発揮して進んでいく事です。
それは間違いありません。笑
今日はここまで。